フィールドから考える社会問題
人類学者は、自分が対象としている異文化社会に長期間、少なくとも1年は自分の身を置き、フィールドワーク(実地調査)を行なう。しばしばある家族の一員として迎えてもらい、人間関係を築きながら現地の人びとと暮らす。それはまず生活に必要な言葉を覚え、人びとの生活様式を学ぶことである。アフリカで毎日、牧童とともに牛追いをしたり、狩りの獲物をさがして延々と歩く文化人類学者もいれば、太平洋の大海原で漁をする文化人類学者もいる。ときにはその土地でケンカをしたり、生涯の友をえるかもしれないし、恋に落ちたりすることもあるのかもしれない。こうして、現地の人びととともに長期間生活することで、その社会の文化を身体ごと体験するのである。この一人の人間が知覚、嗅覚、触覚を使い、ある社会のなか、とりわけある家族に受け止めてもらいその一員となって心身全体で行う調査の仕方を「フィールドワーク」という。このフィールドワークこそがジャーナリズムとは異なる、文化人類学の魅力のひとつである。フィールドにおいて自らの生活の大半をともにした人びととの、その土地との関係は、人類学者にとって生涯の付き合いとなることが多い。すると多くの人類学者はまず、現地の人びとの視点で物をみようとするし、それが人類学そのものである。そして、ふとそのフィールドを出てそこで起こっているさまざまな事柄について、外の人たちが報道したり語ったりするその表象の仕方に、違和感を覚えることがしばしばあるのである。
実際のところ、現代の世界は人道的な観点から「問題」と取り上げられて報道される事柄で埋め尽くされている。そうした事柄は「社会問題」として日々、テレビや紙面、書架を賑している。プロとしてジャーナリズムに身をおかずとも、個々人がネット上で情報を発信できる時代ともなってきている。だがそうした種々の「社会問題」を概観して疑問に思うのは、それら数多の声が一様になりがちで、しばしば暗鬱な色調に彩られていることである。劣悪な状況を写した映像や同時に流される特有の文化像に基づいたナレーション、さらには暗澹たる未来像だけを提示されると、「それだけではないだろう」と人類学者が言を発したくなるのは自然だろう。「問題」であると判断する価値基準、その観点自体が、西洋的観点もしくは政治経済的強者の論理によっていたり、何かの利害関係のもとに発せられていることもありうる。たとえば日本にいる人びとは、日本のメディアがみせる「問題」を問題として映し出されるのである。
もちろん、その地で生じている「事実」や「現状」を否定する気はない。むしろ、その「事実」を自分の身をもって体験して知ってしまっている人類学者は、いわゆる人道的なあるいは西洋科学的立場からの評価と、現地の思考/志向のはざまで悩むこともある。だが、日本で報道されているその「事実」や「現状」はその社会における大きなものの一面でしかないであろうことを、多くの文化人類学者が感じている。またそうした「事実」は、決まりきった視点からとりあげられるだけはなく、現地に行き実際に自分で見ることができない報道される側にも伝えられるべきものだろう。同じ「事実」や「現状」でも、「社会問題」の視点から語るのと、フィールドの現地の視点から語るのでは、まったく別のものが見えてくる。本プロジェクトでは、そうした現場を知った人類学者が、あらゆる「社会問題」について、フィールドからの視点をふまえて感じ、考えたことを、政治的な要素なく現地に深いつながりをもつ個人として「つぶやいて」もらう場である。

(企画:椎野若菜)
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